mogimasa2008-02-17

第22回高崎映画祭の上映作品と企画の全てが最終段階にきている。映画祭ディレクターを励ます事はできても、それ以上にサポートするのは容易には出来ない。それは、決められた役割の中でスタッフが同じ方向性でいけるよう努力することで映画祭が成立すると思っているからである。
いまから12年前に開催された「全国映画祭ネットワーク会議」以来、延々と続いている映画祭スタッフのありかたをどう作り出して行くのかが今も課題として残されている。そしてそのコミュニティが崩壊したら、映画祭は続けていけない。または、映画祭自体が変容するしかない。そういうことになるのだろろう。
昨日、民営化でゆれる山形国際ドキュメンタリー映画祭の葛藤を描いたドキュメンタリー映画『映画の都ふたたび』の監督である飯塚俊男監督とお話しする機会があった。何が言いたいかというと、山形で起きている組織の民営化はただそれだけにとどまらずにボランティア組織やボランティアの仲間同士の関係さえも崩壊させる問題として進行していったというのである。旧知の友人で仲間の一人が、ここの中心人物の一人であったからだけではなく、それ以上に「映画祭」を運営する立場の人にとっては他山の石ではないからだ。そんな共通の話題がいつまでも続いた。
映画祭・民間ボランティア・責任の分担・疲労困憊の組織・文化行政のありかた、課題は大きいのに先の見えづらい現実を嘆いてもはじまらんということで、話しを打ち切りさきに進んで行きましょうということになる。山形の最大の問題点は、民営化そのものではなく「誰がどう映画祭を運営するのか、そして、それをどのように支えていくのかがコミュニティで解決できなかった」と思っている。コミュニティの崩壊は、映画祭世界の終焉を意味する。
未来の扉や迷宮の扉が、開かないと諦めたくはない。そのために扉を開ける杖を多数作成して来ているのだから。